音羽館(新学生宿舎)開寮記念オンライン展示「写真で見る学生寮」
はじめに
1.揺籃の時代
明治8(1875)年にお茶の水の地で開校した東京女子師範学校の校舎は、8月9日に落成した木造2階建の洋風建築1棟のみでした。階下が教室・職員室・校長室などに使われ、階上が寄宿舎になっていました。南側が自習室で、板の間に椅子・テーブル・ストーブを置き、北側は畳敷きの部屋にベッドが置かれ、1室定員7名の寝室となっていました。ところが間もなく寝室と自習室を合同して、各室の中央にストーブを置き、その両側に6人ずつ、1室12人となりました。その他に食堂・理髪室・浴室などの設備があり、浴室は10室もあって、1人ずつ入浴していました。
明治33年から同36年にかけて助教授廣瀬豐十郎により編纂された『女子高等師範学校沿革大要』には、明治12年末の「学則ニ関スル事」章に「学資」に関する項があり、その中で「生徒ハ寄宿舎ニ収容シ学資ハ一ヶ月一人ニ付四円五拾銭ヲ給与ス」とあり、生徒は全て寄宿舎に収容されていたことがわかります。明治44年に明文化された「入学志望者心得」において、「六.入舎 本科生徒ハ寄宿舎ニ入舎セシム但自宅其ノ他ヨリ通学セント欲スルモノアルトキハ適当ト認ムル場合ニ限リ或期間特ニ許可スルコトアルヘシ」と、昭和2(1927)年の「寄宿舎規定」に「第二条 生徒ハ特別ノ事情アリト認メタル者ノ外總ヘテ寄宿舎ニ寄宿セシム但寄宿舎ニ収容スヘキ者ノ數其ノ定數ニ超過スルトキハ若干名ヲ限リ通學ヲ命スルコトアルヘシ」とあるように、例外的に通学する生徒も存在しますが、戦前においては、原則寄宿舎に収容されていました。
明治10年に、寄宿舎が増築されましたが、この寄宿舎は1室に30名程も収容され、畳敷きの寝室と自習室を兼ねた部屋でした。また、この頃から生徒数も増えたため、浴室も一度に大勢が利用するようになりました。
明治16年10月に、新築寄宿舎2棟と食堂・台所が完成しました。この寄宿舎は1室4人定員の畳敷きの部屋からなり、各部屋とも自習室と寝室が兼用になっていました。新たに台所ができたため、従来食事は請負の食事であったものが家事実習も兼ねて朝夕各自で自炊することになりました。
明治19年には自習室と寝室が別になり、自習室は本校舎の2階に移されて、椅子とテーブルが設備された板の間になりました。寝室は従来の寄宿舎全部を充てて、畳敷きの部屋にベッドを置きましたが、翌20年の夏休み後から板の間になりました。この頃、世はちょうど鹿鳴館時代を迎えており、生徒の服装は洋服であり、畳替えの費用を節約するための措置でした。その後、明治23年には寄宿舎の増築がおこなわれ、明治27年には大地震があり、生徒の安全を考えてか本校舎2階の自習室が、階下に移されました。
2.明治・大正の時代
(1)新式一大寄宿舎
明治32(1899)年4月に新式の大きな寄宿舎が完成しました。これは、文科・理科への分科や技芸科設置によって定員が300名まで増加したことに対応したものと考えられます。この寄宿舎は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災で全焼するまでの寄宿舎で、多年の準備と計画の下に建てられたものです。寄宿舎は、6棟からなり、第1・2・5棟は2階建てで、1部屋に16人入る大きな畳敷きの部屋が上下それぞれ6部屋あり、第3棟は平屋で、1部屋に6人入る小室が6室あって、以上は、全て寝室として使用されていました。第4棟は、理装室・月番室・茶話室・医局・薬局・病室に充てられ、第6棟は3部屋だけで生徒監室・談話室・寝室になっていました。他に食堂・浴室などがありました。自習室は、明治31年竣工の400畳敷き(二十間に十間)の講堂で、毎日5分ほど歩いて寄宿舎から勉強に通い、何か行事があれば、机を隅へ片付けて会場としました。
明治44年春、隣接していた東京高等師範学校の土地・建物がすべて本校に移管され校舎にゆとりができたため、寄宿舎は旧校舎(西校舎)の一部も利用することになり、9室増室されました。また、自習室が講堂も兼ねていたものを、講堂だけに使用することになり、毎日歩いて自習室に通う不便が無くなりました。寝室が自習室を兼ね、1室16名定員が12名に減らされました。棟の名称も、これまで第1棟から第6棟までがそれぞれ「一の側」「二の側」などと呼ばれていましたが、「一の側」から順に「菊の寮」「梅の寮」「竹の寮」「蘭の寮」「花の寮」「月の寮」と名称に改められ、旧校舎の一部を改造した新しい寄宿舎は「雪の寮」と名づけられました。
大正6年9月10日に揚場町以外の外舎(後述)を全てお茶の水の本舎に移し寄宿舎を再編成しました。月・花・梅・菊の寮は各部屋12名であったのを16名に、竹の寮は6名ずつとし、蘭の寮は理装室を除いて全て自習室とし、旧校舎から移転した音楽教室の跡は、藤の寮として使用しました。
(2)学外の寄宿舎
明治42(1909)年5月、牛込区(現・新宿区)揚場町に東京女子高等師範学校寄宿分舎が設けられ、専修科の生徒が入りました。さらに同44年4月に従来の本校構内の寄宿舎を第一寄宿舎と改称し、揚場町の寄宿分舎を小石川区(現・文京区)諏訪町に移転し第二寄宿舎とし、小石川区原町に第三寄宿舎を新設しました。これは、本校生徒の定員増加(300名⇒450名)に伴い、従来の寄宿舎だけでは収容しきれなくなったための措置でした。これら第二・第三寄宿舎は小規模でしたが、内容は第一寄宿舎とほぼ同じでした。
同年7月、諏訪町の第二寄宿舎で害虫が発生したため、舎生はもとの揚場町に復帰し、第三寄宿舎分舎と呼ばれました。翌45年4月、第三寄宿舎を牛込区赤城元町に移し、大正2(1913)年4月に本郷区(現・文京区)森川町に新たに第二寄宿舎が設けられました。
3.関東大震災と仮寄宿舎
大正12(1923)年9月1日の関東大震災のため校舎の一部が崩壊した後、周囲の火災の飛び火で校舎、寄宿舎は瞬く間に灰になってしまいました。揚場町の第三寄宿舎分舎は無事だったものの、急場をしのぐため小石川区(現・文京区)雑司ヶ谷町の東京盲学校内に第一仮寄宿舎(翌年1月に第二仮寄宿舎に合併)を、東京府豊多摩郡淀橋町(現・新宿区歌舞伎町)の東京府立第五高等女学校の中に第二仮寄宿舎を設けました。
お茶の水の元の場所に、仮寄宿舎(仮校舎も)が完成したのは翌13年3月20日でした。バラック平屋建が5棟並んだもので、蘭・竹・梅・菊の4棟は生徒室に充てられ、各棟には一間半の廊下をはさんで両側に40畳の部屋が4室ずつあり、各室の片側は板戸の押入、もう片側は棚になっており、白いカーテンがかけてありました。1部屋に11人から12人が入りました。残りの1棟に、生徒監室・応接室・食堂・炊事場・浴室が充てられました。
4.お茶の水から大塚へ
(1)第1寄宿舎
昭和4(1929)年11月22日、大塚の新校地に収容能力350名、総工費45万円をかけた新築の第一寄宿舎が完成しました。校舎より一足先に移転したため、しばらくの間、生徒は大塚の寄宿舎からお茶の水の仮校舎まで毎日通学する事になりました。お茶の水時代の寮名を継承する蘭・竹・梅・菊の四寮が渡り廊下で大食堂へつながれ、炊事場・浴室・洗濯室なども完備していました。寄宿舎の内部は、板の間にテーブルや椅子の置いてある自習室の両側に、押入付の8畳間の寝室があるという作りで、寝室は1室4人が寝起きし、自習室は両側の寝室から8人で利用することになっており、寝室と寝室の間は大きな鏡のついた洗面所で、やはり両側の寝室から利用する仕組みでした。
昭和20年5月25日夜からの空襲は、翌26日未明に及び、第一寄宿舎は26日早朝職員生徒の必死の消火にもかかわらず、遂に焼失してしまいました。
(2)第2寄宿舎
第2寄宿舎は、昭和11年3月24日に現在附属中学校の建っている場所に完成しました。乏しい物資を工面して新築した寄宿舎でしたが、昭和20年4月12日夜の空襲で全焼してしまいました。寄宿舎全焼以後は、疎開して留守になっていた附属高等女学校校舎に宿泊することになりました。
(3)貞秀寮
昭和14年7月、軍事保護院は文部省と協力して戦没者寡婦のうち中等学校女教員を志す者のために特設教員養成所の設置を決め、東京女子高等師範学校に東京特設中等教員養成所が併設されました。生徒達の多くは子どもを抱えており、子どもと共に入居できる寄宿舎と保育室が用意され、寄宿舎を貞秀寮といい、保育室を玉成舎といいました。貞秀寮は、東京市板橋区板橋(現・板橋区大山)にあり、和風の第1貞秀寮と洋風の第2貞秀寮からなり(後に第3貞秀寮も加わります)、第2貞秀寮に隣接する保育室兼集会所として玉成舎が建てられました。
5.戦後の学生寮
昭和20(1945)年、戦後数ヶ月の後、久米又三教授のなみなみならぬ努力で、元陸軍造兵廠建物橘寮を転用して、寮生の収容がとりあえず実現する運びとなりました。これが大山寮の始まりです。しかし、これだけでは足りなかったため、護国寺山門脇にあった音羽洋裁学院の建物を臨時借用して、音羽寮としました。
昭和24年3月31日、文京区高田老松町の吉祥院の土地にある建物を桜蔭会から90万円で買収し、第二寄宿舎(老松寮)が使用できるようになりました。この寮は、木造瓦葺平屋建2棟で収容人員は31名でした。老松寮は、昭和32年3月31日に老朽化のため、閉寮となりました。
昭和31年にようやく本学構内に第三寄宿舎(学内寮)が完成しました。A号棟は、3月31日に、B号棟は12月26日に完成しました。A号棟・B号棟共に上下4室で1ブロックを構成し、炊事場・洗面所・トイレ・階段が専用で設けられ、部屋は各室とも2段に区切られ、上段が畳敷の寝室に、下段が板の間の学習コーナーに充てられました。また、A号棟は、木造2階建、収容人員45名、各室4名であったと記録が残っています。
第3寄宿舎(学内寮)は、昭和56年に閉寮となり、新しく小石川寮が建設されました。
平成23(2011)年3月には、小石川寮の隣に、お茶大SCC(Students Community Commons)が完成しました。
昭和41年、大山寮敷地内にかねてから検討されていた新寮のうち、まず第1期のA棟が完成しました。鉄筋コンクリート4階建、一部2階および地階で収容人員は144名でした。1部屋4名の36室でスチーム暖房完備、家具としてロッカー・机・椅子・戸棚・本棚が設けられ、二段ベッドも備えられていました。A棟が新築されてからしばらくは古い木造の旧棟と新寮を合わせて使用していましたが、同43年にA棟と同じタイプB・C棟と共用棟が第2期工事として完成しました。収容人員は、B棟が96名、C棟が92名で総定員は332名となりました。
その後、平成7年に増改築をおこない、国際学生宿舎となりましたが、令和4年、音羽館の完成に合わせ閉寮となりました。
長嶋 健太郎(お茶の水女子大学歴史資料館アソシエイトフェロー)